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だから僕らは生きていけるのだ
すみません。
いきなりトイレの写真を…。
”気持ち”とか、”心”ってなんでしょうね?
もともと形がないので、その瞬間、瞬間で、いろんな形になる。
本の中の一行の言葉、
ラジオから流れてきたメロディ、
かけられた一言、
で、一瞬にして心が180度変わることがある。
状況は何一つ変わってないのに。
心って不思議。
形がないものだから、気がつかないうちに歪な形になっていることがある。
なんかイライラしている。
なんか気持ちが乗らない。
なんか悲しい。
なんか今日は浮かれてる!
人に同じことをされても、昨日は気にならなかったけど、今日はなんか腹が立つ。
一番身近にあるものなのに、僕らは意外と今の心の形に気が付かずに、自分自身が自分の気持ちに振り回されてしまう。
だから、自分の心の様子をチェックすることって、とても大事だと思う。
特に朝は。
1日の始まりですからね。
旅する木では、毎朝仕事の前に、工房の掃除をします。
新人の最初のハードルは、トイレ掃除ですね。
素手でやるんです。
「素手で触っても嫌じゃないくらい綺麗にする。」という意味で。
でも、一年やったらその後トイレ掃除は僕がやります。
元々トイレ掃除は好きなので、本当は他の人にやらせたくないんですよね(笑)。
トイレ掃除の時、必ず同じ曲を聴きながらやります。
ちょうど4曲で男子トイレ、女子トイレの掃除が終わるんです。
テイストが異なる4曲。
1曲目は、心が静かになる曲
2曲目は、優しさが溢れる曲
3曲目は、力がみなぎる曲
4曲目は、大きな愛に包まれている気持ちになる曲
毎日毎日、同じ曲を聴きながら、便器と向き合う。
素手で。
便器はいいんですよ。
なんと言っても懐が深い。
だって、いつも誰もの排出物を黙って受け止めているのですから。
これは誰にでもできることではない。
かなり懐が深く、そして無口で無表情。白色というのもいい。
毎朝同じ曲を聴きながら、そんな便器を磨いていると、その時の自分の心の形がわかるんです。
今日は心が荒れている、とか、浮かれている、とか、少し悲しい、とか、愛が溢れている、とか。
そうして、心が乱れている時は、心を整えようと思えるんですね。
まあ、整えられる時と、それができない時もあるのですが、それでも、その時の自分の心の状態に、自分が気づいているのか、いないのか?は、大きな違いだと思います。
激暑の夏も終わり、今ではあの暑い夏が懐かしく思うくらいに、北海道は、朝晩はひんやりと心地よい風が吹いています。
そして秋の夕焼けは言葉を失うくらい美しい。
こんな風景をどんな言葉で表現したらいいんだろう?
秋の燃えるような夕焼けは、その美しさの中に、悲しさを内包している。
命を賭しての最後の灯のような気がして。
そんな夕焼けの中を、ノンノ(北海道犬)と散歩していると、なんでもないところでつまずいて、その後なんでもないように起き上がって、のっそのっそと歩き出す15歳の老犬のノンノを見て、泣きたくなる。
疲れるとすぐに立ち止まって座り込み、動こうとしないノンノの横に僕も座って、ノンノと夕日を眺める。
夕日を背に、シルエットのトンボがいっぱい飛んでいる。
なんだかとても悲しい気持になって、涙を見られないようにノンノを抱きしめると、ノンノはイヤそうに、フーッとため息をつく。
それが可笑しくて、
「なんでよ〜。」と、泣きながら笑ってしまう。
そんな僕とノンノのやりとりを見ていたかのように、一匹のトンボが僕の腕に止まる。
全く無警戒のトンボは、人差し指を出すと、歩いて人差し指に乗り移る。
神様がトンボの姿になって来てくれたような気がして、無性に嬉しくなる。
よく見ると、4つの羽のうちの一つの羽がとても小さい。
「ああ、上手く飛べないんだね。」
しばらく指に乗せて連れて来たけど、家の中まで連れてくるわけにもいかず、葉っぱの近くに指を持っていっても、ちっとも葉っぱに乗り移ろうとしない。
出会ってまだ数分なのに、このトンボがとても愛おしくなる。
仕方がないので、春に咲いていたチューリップのところに行って、
「このチューリップは優しいから大丈夫だよ。」
っと、茎だけになったチューリップにそのトンボを乗せる。
なにが大丈夫かわからないけど。
心ってなんだろう?
相変わらずノンノはたまにつまづくけど、相変わらず秋の夕焼けは悲しいほど美しいけど、
今はなんだかとても可笑しくて、そして愛おしくて、優しい気持ちだ。
心はその深さと同じくらい浅い。
だから僕らは生きていけるのだ。