大人じゃ〜ん! | 札幌のオーダー家具・オーダーキッチンなら家具工房【旅する木】

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大人じゃ〜ん!

昨日、工房の大掃除を終えて、今日から4日までお休みを頂きます。

今年はブログをあまり更新できないほど日々忙しく(言い訳?)、家具や車椅子の製作に追われていました。

昨日、今年最後の納品に伺ったお客様に、
「私、あまりブログを読まないのですが、須田さんのブログは読んでるんですよ。」っと言われ、嬉しい反面、もっと頻繁に更新しなきゃな。っと思いました。

以前にも納めた家具の写真撮影をし忘れて、お客様のところへ戻った時に、
「ブログ、読んでます!」
と言われ、嬉しくて、ルンルンした気持ちで帰ってきたことがあります。

僕のブログは長いし、家具屋なのに家具について、ほとんど触れていないし、読んでくれている人いるのかな?なんて思いながら、それでも文書を書くのは好きなので、心赴くままに、書いています。

 

年の瀬になるといつも思いますね。
今年もあっという間だったな〜。人生って長いようで、短いんだなあ。
いつか、閻魔大王の前で、
「閻魔大王様、僕はちょっと羽目を外した人生だったけど、でも、楽しかったぁ。」
なんて言えるくらいの人生を歩みたいな。
なんてね。

 

友達のKと、木工仲間のSと3人で、2ヶ月に一度のペースで、ちょっと高級な料亭や寿司屋で食事をすることにしています。

Kとは大学の同期で、入学式で偶然隣に座ったのがきっかけで仲良くなって、しょっちゅうお酒を飲みながらKの演奏するギターに合わせて大声で歌ったりしたものです。
なので、かれこれ35年ほどの付き合い。

子供の頃から音楽にたずさわっていて、今でも吹奏楽の楽団に所属しているKから、この言葉が飛び出したんですよね。

 

『純正律と平均律』

 

お!なんか知的な言葉が出てきて、ちょっとこの言葉だけで心が引きずり込まれそうじゃないですか(笑)?

吹奏楽をやってる人なら、知ってるんじゃないですかね。

 

一浪して入学してきたので、僕より一つ年上なのですが、あまりに精神年齢が子供の僕に比べて、当時からKはしっかりしていて、大人だったんですよね。

 

こんなことがありました。

まだ入学式から日が浅いある日、Kと一緒に道を歩いていたら、道の向こうにヤンキー二人組がいて、長野の田舎育ちの僕は、ヤンキーが珍しくて、つい、じ〜っと見てたんですね。
そうしたらヤンキーたちは
「なに見てんだよ。」
と僕らの方に強面で文句を言いながら近づいてくるわけです。

どうしよう、どうしよう…とドキドキしている僕は、結局彼らに同調して、最後はこっちも行くしかない!と、彼らの売り言葉に対する有効的な買い言葉を探して、喉元まで言葉が出かけた瞬間、Kが大声で
「すみませんでした!」
と深々と頭を下げたんです。
結局そのまま何事もなく済んだんですね。

ホッとしている僕は心の中で、
「K、大人じゃ〜ん!」
って思ったわけです。

 

こんなこともありました。

 

当時から北海道が大好きで、暇さえあれば北海道を1人旅していた僕は、たまたま旅先で新潟県在住の2つか3つ年上の女性と仲良しになりました。

僕は新潟大学在学だったので、戻ったら映画でも見にいきましょう。という話になって、見に行ったんですね。
どういう経緯かは忘れましたが、僕の部屋で夕ご飯を作って食べることになって、準備していた時、突然Kが遊びに来たんです。
紹介しようと思ったら、Kはそそくさと帰っていきました。
今思うと、きっと気を利かせたんでしょうね(笑)。

これまたどういう経緯か忘れましたが、その女性は新潟市からはちょっと離れた町に住んでいて、終電を逃してしまったんですね。
それで僕の部屋に泊まることになったんです。

なんだか話が怪しい方向に行きそうですが、なにもなく(本当に)、僕は熟睡して、いつものように朝を迎え、彼女は始発で帰っていきました。

その日、大学でKと会った時、あれこれ聞いてくるので、経緯を伝えると、Kは
「須田、お前なあ、年上の女性がだよ、終電逃して泊まっていくことになったということは、それはそういう覚悟があったってことなんだよ。それは男としてちゃんと応えてあげなきゃいけないだろ。もしその気がなかったとしても、お前が恥をかく分でも、女に恥をかかせちゃいけないってもんだ。」
というようなことを言ってきたんですね。

その時も思いましたね。

「K、大人じゃ〜ん!」

 

 

『純正律と平均律』
楽器のチューニングの仕方の方法なんですって。

簡単に説明すると…

ん〜。簡単に説明できません。
興味ある方は YouTubeで調べてください。

結果だけで言うと、

純正律でチューニングされた和音は、ピッタリでわずかな音のうねりもなく、美しいハーモニーを奏でる。
その音は、宇宙の神秘を感じるほど、透明で澄んでいるんですって。

ただ、純正律でチューニングすると、基準とした音、例えば『ド』と、1オクターブ上の『ド』が一致せずに、少し高い音になってしまう。
二つの『ド』を同時にならすと、きれいにハモらず、微妙な音のズレができてしまうんだそうです。

この1オクターブの音のズレをよしとせず、オクターブを完全に調和させることによって生まれるズレを、1オクターブの中で均等に振り分けましょう。ということで生まれたものが『平均律』。

完全にピッタリに混ざり、溶け合う調和する音を、それぞれちょっとずつずらして、一オクターブの辻褄を合わせるチューニングの方法が『平均律』なんですね。

僕が調べたHPの人は、
「これはもう、完全に混ざり合う音を”捨てた”ということになります。つまり、完璧な音楽からの「妥協」です。」
と書いてありました。

これだけ聞くと、じゃあ楽器は全部、純正律でチューニングすればいいじゃないか。
と思いますよね。
ところが、19世紀以降、音楽はほぼ全て、平均律でチューニングされた楽器で作られているんだそうです。

 

なぜか?

純正律でチューニングされた楽器は、1オクターブの音がピッタリ合わないため、転調(てんちょう=調を変える)をすることができない不便さがあるからだそうです。

ピアノは調律に何時間もかかるので、調の異なる曲を弾く時は、その都度調律をしなきゃいけなくなってしまうんですね。
そんなことは不便ですし、同じ曲の中で、調の異なる曲は生み出されないことになってしまいます。

それで”完全な一致”を捨てた妥協の産物の平均律が主流になっていったんですって。

 

中学の吹奏楽部に入ったKは、当時指導していた先生が、せっかくチューニングした楽器なのに、「もうちょっと低くして」と言われて出した音の和音の響きの美しさに感動したんだそうです。
その時、『純正律と平均律』の仕組みを知ったんだそうです。

 

この話がなんかとっても心に刺さったんですね。

 

僕らは日々の暮らしの中で、自分の心をいつも平均律でチューニングしてるんじゃないかと。

固定観念だとか、勝手に自分や世間が決めた正しさだとかそんな枠の中で折り合いを付けようとているんじゃないかと。

 

その方が上手くいく。
そうすれは嫌われない。
そうすればはみ出ない。
そうすれば丸く収まる。
そうすれば変に思われない。
そうすれば自分を守れる。
その方が安全。
そうするのが正しい。
そうするのが幸せ。

 

でも、僕らはどこかで求めている。
本当の自分らしくありたい。

純粋に自分の心に正直に生きると、人とぶつかることもある。人を傷つけることもある。
それでも世間に帳尻を合わせるような生き方ではなく、自分の心の声に従って生きたい。

 

誰もが割り切れない思いを抱えて生きている

割り切れない思いをどこかで割り切って、生きている。

その割り切れない思いを割り切ったことを、割り切れずに生きている。

でも、これからは少しずつ、割り切れない思いを割り切らずに生きていきたい。

きっとその方が最後の時、「あ〜楽しかった!」と思えるんだろう。

 

年の瀬に、Kの語る『純正律と平均律』の話を聞いて、そんなことを思いながら札幌から当別に帰る電車に揺られていました。

 

最後にふとKが言った言葉を思い出しました。

「モーツアルトの時代、音楽は純正律で奏でられていたんだ。その音を聴いてみたい。」

 

35年経ってもやっぱり思いましたね。

「K、大人じゃ〜ん!」

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今年もたくさんの家具を、そして車椅子も製作させて頂きました。

本当に感謝しております。

そして、こんなブログを読んでくださっている皆様、旅する木を応援してくださり、支えてくださり、ありがとうございます。

最後に純正律で奏でる曲をプレゼント致します。
お聞きください。

 

 

エンヤは、現代でも純正律の美しさを追求して、音を作っているミュージシャンの一人だそうです。

美しい響きで、人々の心を癒してくれます。